Re: [閒聊] [田中稔] 侍・凡下考
以下只是個人囫圇吞棗的無專業整理,舉的例子中不太重要的只稍註不譯
庭津鳥可鶏乃垂尾乃乱尾乃長心毛不所念鴨
読下文 庭つ鳥鶏の垂り尾の乱り尾の長き心も思ほえぬかも
訓み にはつとり かけのたりをの みだりをの ながきこころも おもほえぬかも
現代語 家に飼う鶏の垂れて乱れた尾のような末長い気持も、今は考えられないことだ
大和言葉的鷄=かけ,跟猪=イノシシ是咿咿叫的獸一樣,據說是由鷄叫聲來的
庭つ鳥這個和歌定型枕詞,久而久之取代かけ,現在日文講到雞反而=にわとり或とり
※
和銅元年戊申(715) 天皇御製 元明天皇
大夫之鞆乃音為奈利物部乃大臣楯立良思母
読下文 ますらをの鞆の音すなりもののふの大臣楯立つらしも
訓み ますらをの とものおとすなり もののふの おほまへつきみ たてたつらしも
現代語 勇士たちの鞆を弦がはじく音が聞こえて来る。
もののふの大臣が今しも楯を立てているらしいよ
奈良末期成立的『万葉集』中
もののふ(物部)的解釋=古代仕於朝廷的人、朝官、文武官人
大夫・健男・武士・益荒男・益荒夫的和訓讀作ますらを、用來表示「強く立派な男」
柿本朝臣人麻吕從近江國上來時至宇治河邊作歌一首(660?~724)
物乃部能八十氏河乃阿白木爾不知代經浪乃去邊白不母
読下文 もののふの八十氏河の網代木にいさよふ波の行く方知らずも
訓み もののふの やそうぢがはの あじろきに いさよふなみの ゆくへしらずも
現代語 もののふの多くの人、その氏──宇治川の網代の木に漂いつづける
波のように、行く末のわからないことよ
八十氏人(やそうぢびと)=許多氏族的人。很多人
物部八十氏(もののふのやそうぢ)=文武百官
宇治河(うぢがは)。這段枕詞是為了修飾帶出掛詞(雙關)宇治川
※ 鎌倉右大臣(源實朝)
題しらず 『新勅撰集』巻六・冬歌・歳暮・四三七 槐和歌集(334番)
江戸中 武士のやそうち川を行水のなかれてはやきとしの暮かな
明治寫 ものゝふの八十宇治川を行水の流てはやき年のくれかな
訓み もののふの やそうちかはを ゆくみつの なかれてはやき としのくれかな
もののふの八十うぢ河を行く水の流れて早き年の暮れかな
當吟誦五十首和歌之時,表達了惜別歲末的情感
金槐和歌集(677番)
江戸中 ものゝふのやなみつくろふこての上に霰たはしるなすのしの原
明治寫 武士のやなみつくろふこての上に霰たはしるなすのしの原
訓み もののふの やなみつくろふ こてのうへに あられたはしる なすのしのはら
武士の矢並つくろふ籠手(小手)の上に霰たばしる那須の篠原
中世以前的日本和歌慣例上是用大和言葉・和訓・訓読み
江戸中期的刊本跟明治時代的寫本(抄寫對像不明但可能是江戸時代或更早的手抄本)
對上述源實朝二首和歌中的もののふ一詞出現了分岐
寫成もののふ可單純解釋為朝臣、文武百官,若寫成武士則是以弓馬仕於朝廷的人
上面那首解釋為文武百官的話,宇治川是京都附近的河流帶出地點未必有深意
就是感嘆時光如宇治川的流水轉眼歲暮已然到來
但解釋為武士的話,宇治川是武士濺血之地,整首歌的意思就不這麼平穩了
極端點說,源實朝曰:源氏正統、縮此時畢。子孫敢不可相繼之。
武士就愛打打殺殺早點 Over 算了(大誤
而もののふのや(武士の矢)這個持弓武士的定型枕詞,多掛在や開頭的地名
漸漸不需要や,枕詞もののふの就代表武士
到最後もののふ=武士,與庭鳥及侍一樣,新的意思取代了舊的
同一詞彙的意義隨時代不斷出現改變
從奈良、平安、鎌倉、室町、戰国、江戸、現代,不斷有大大小小的變化
※ 太平記 卷第五 ○大塔宮熊野落事
其邉ノ郷民共ノ欲心ヲ勧テ。宮ヲ他所ヘ帯キ出シ奉ラント相計テ。道路ノ辻ニ。札ヲ書
テ立ケルハ。大塔宮ヲ奉討タラン者ニハ。非職凡下ヲ不云。伊勢ノ車間庄ヲ。恩賞ニ可
被充行由関東ノ御教書有之其上ニ定遍先三日力中ニ。六万貫ヲ可與。御内伺候ノ人。御
手ノ人ヲ討タラン者ニハ。五百貫。降人ニ出タラシ輩ニハ三百貫。何レモ其日ノ中ニ必
沙汰シ與ヘシト定テ。奥ニ起請文ノ詞ヲ載テ。
鎌倉末期護良親王還俗舉兵往熊野入十津川,幕府認為派十萬騎也打不進十津川
就在路口立牌勸這邊的鄉民討伐大塔宮,不論非職凡下都可獲得關東保障的恩賞
伊勢車間庄=栗真庄,但暗綠色這部分不同刊本有差異,另一版本只寫了給六十貫
※ 太平記 卷第十七 ○山門攻事[附]日吉神託事
山門ヲ攻落スヘキ諸方ノ相圖明日二アリ。此ノ合戰ニ一足モ退タラン者ハ。縦先先抜群
ノ忠アリト云共。無ニ處シテ本領ヲ没収シ。其身ヲ可追出。一太刀モ敵ニ打違ヘテ。陣
ヲ破リ分捕ヲモ。シタランスル者ヲハ。凡下ナラハ侍二ナシ。御家人ナラハ。直ニ恩賞
ヲ可申與。サレハトテ獨高名セントテ。拔懸スヘカラス。又傍輩ノ忠ヲ猜テ危キ處ヲ見
放ツヘカラス。互ニ力ヲ合セ。共ニ志ヲ一ニシテ。
※ 朝倉始末記卷之八 一揆與大將合戰之事
(天正二年)同十一月上旬ノ比ヨリ一揆ノ健民等坊主共ヲ可討捕トノ鬱憤事……
若林長門守野島兩人ヲ武者大將僅ニ二百餘騎雜兵五百餘人牛カ島表ニ支ヘタリ。然ニ
若林諸卒ニ向テ下知シケルハ此度ノ合戰。一足モ退タラン者ハ縱ヒ前々ノ忠アリト云
トモ無キ者ニシテ本領ヲ可没取。一太刀モ敵ニ討合セテ陣ヲ破リ分取リヲ仕タラン者
ハ。凡下ナラハ侍ニ成。武士ナラハ直ニ恩賞ヲ可與。又高名セントテ獨不驅拔互ニ力
ヲ合セ共ニ志ヲ一ニシテ討トモ討ル、……
※
『太平記』中足利尊氏自九州反攻,在湊川之戰大破新田義貞・楠木正成
準備攻後醍醐遁籠的比叡山時下達
此戰退後一步的人,縱然過去有拔群之功,也會沒收全部的領地,並被追放
立功之人,凡下的話可成為侍,御家人的話可獲恩賞,&不要爭先單挑,要互助合力
後世的軍記物『朝倉始末記』中直接致敬了『太平記』中的這一整段
但御家人被替換成了武士
凡下可成侍,御家人可得恩賞。 那侍=御家人嗎?
凡下可成侍,武士可得恩賞。 那侍=武士嗎?在身分上武士=御家人嗎?
很微妙,『太平記』中是因為修詞而改用不同用語
或是侍與御家人其實存在差異,但為何略過侍立功的話能成為或得到什麼?
但個人感覺這裏的侍可能=上一篇文中提及的「侍品」=地侍階級
也就是差不多=戰国時代的軍役眾/同心
※ 甲陽軍鑑 起卷第一
子細は我等、元來百姓なれ共、不慮に十六歲の春、召出され、地下をいで春日源五郞に
なり、奉公申、
一敵方にても、一國を持給ふ侍は、なに大將か大將と申さず、
子細は日本國をあつめても、百人にたらず、六十六人の武士なり、さる程に、一國をも
つ大將の中に、古來からの侍をば、家をたつとび、うやまふべし、しいでの國持侍をば
、
元來是百姓,被召出成為地下(侍)春日源五郞,開始奉公
即便是敵方,持有一國的侍,也不是隨便就能稱為大將
細數整個日本國也不到百人,僅有六十六名武士
擁有一國的大將中,出身古來的侍之家應該被尊敬
先不管這就是在捧武田出身好棒棒
在軍記物中,武士、侍、地下這些用語的區分
古來的侍=武士=大將,百姓奉公成為地下
這些階級上下是有明顯差異的,但經江戸時代長期承平&近代日文現代化的影響
從外面看武士(上士)與武家奉公人(下士)的差異被扁平化
兩者都被視為士族,而士族被當成武士,造成混亂
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人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
^,,,^ 一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
(ミ‵ω′)\m/
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